マスクド・スーパースターの生き残りに学ぶ
ヘビー級のマスクマンとして、決して派手さはなかったものの、その堅実でケレン味のないファイトは大変重宝がられ、日米を中心に、息の長いレスラー生活を送ったマスクド・スーパースター。彼は、本当に上手にレスリング業界を渡り歩いたと言ってよいでしょう。
クセが強くて我も強い。何とも扱いづらいプロレスラーという人種。そんなレスラー間で、このマスクド・スーパースターの事を悪く言う者はいなかったと言います。一定数のファンを各地に持ち、どの有力プロモーターからも高評価され、誰からも嫌われる事の無かった稀有なレスラー、マスクド・スーパースター。彼の上手な世渡り術、生き残り方は、今も大いに見習い、学ぶべきものがあります。探ってみました。
マスクド・スーパースターのその残念なバリエーション
フライング・ネックブリーカーにスイング式のネックブリーカー。スリーパー・ホールドにコブラクラッチと、マスクド・スーパースターは、ひと試合に必ずといっていいほど、いくつかの首攻めの技を出します。そして、そのどれもがとんでもない破壊力を持っているのですが、山本小鉄氏は、よくテレビ中継の際の解説で、「首なら首、ヒザならヒザと一貫して攻めないんですよね。ムラがあるというか、欲がないというんですかね」この解説が、マスクド・スーパースターの全てを言い表していると言っていいでしょう。
新日本プロレスの常連で、TVマッチでは、ちょくちょくメイン・セミファイナル辺りに組まれていたマスクド・スーパースターは、そのことからもわかるように、レスラーとしての評価は大変高く認められていました。IWGPリーグ戦やMSGタッグリーグ戦などの主要なシリーズには、ほぼフルでレギュラー参戦し、エース格はホーガン、アンドレ、マードック等に譲りつつも、二番手としての確固たる地位をモノにしていました。が、このポジションや先述の山本氏の言葉にもあるような試合運びの欲のなさが、ソツがない感じにも受け取れ、マスクマンという感情がなかなか表に出せない面もあってか、彼をそれ以上でもそれ以下でもないパラドックスに陥らせてしまったのかもしれません。
コブラクラッチでグッタリするまで攻め続け、ロープに逃げられたらボディスラム。からの、トップロープに上ってボディプレス。が、かわされての延髄斬り!……。この男に、「欲」というモノがもう少しだけあれば、また違ったレスラー生活があったのかもしれません。そう、それは、1970年代後半からすでに、ジャイアント馬場や長嶋茂雄とは別に、ムンクの叫びや捕まったウサギなど、細かすぎるものまねを惜しげもなく披露し続け、ごく一部のマニアの間ではカルト的な人気を誇っていましたが、如何せん、欲を出さずにいたため、イマイチ全国区にまで届いていなかったタレント、関根勤を彷彿させると言えるでしょう。
マスクド・スーパースターの欲のないその改名歴
マスクド・スーパースターを語る上で、捉えておきたい点として、その「改名」です。というか、各地区を転戦するごとにリングネームが変わるところです。
彼を一躍有名にしたのは、もちろん、この『マスクド・スーパースター』ですが、確固たる地位を築いたと言えば、WWEに所属する際に付けられた❝アックス&デモリッション❞の『アックス』ではないでしょうか。WWEという、プロレスの世界一のメジャー団体でのこのリングネームは、WWEで活躍するにつれ、彼を不動のモノにしたと言えるでしょう。
晩年、本人も語っていますが、リングネームが何個あったかは、いちいち数えたり覚えてはいなかったそうです。途中から面倒くさくなったとの事です。マスクド・スーパースターやアックスのように広く知れ渡ったものから、デビュー当時の転戦の度にコロコロ変わっていた頃も含めてですが、リングネームとは違い、ファイトスタイルはそれほど変わったようには感じられません。つまり、欲のない淡白なスタイルは、逆に終始一貫していたと言えるでしょう。リングネームが変わる度に、そのファイトスタイルもちょっとずつでも変えていれば、また違ったレスラー人生を歩んでいたかもしれませんが、そうでないところが、マスクド・スーパースターらしいといえばらしいのかもしれません。
①ビル・イーディー ➡ ②ボロ・モンゴル ➡ ③マスクド・スーパースター(④ビリー・クラッシャーと重複の時期多し) ➡ ⑤スーパーマシーン ➡ ⑥デモリッション・アックス
上記に記載したのが、マスクド・スーパースターの主なリングネームの変遷です。他にも、それぞれの間に短発で使ったモノや並行して使い分けていた等、色々混在しているのですが、ざっくり分けるとこんな感じです。日本ではやはり、マスクド・スーパースターが一番有名で、彼を言い表すには、最も相応しいのですが、彼自身は、WWEのボス、ビンス・マクマホンにより命名されたアックス・デモリッションがお気に入りなのだそう。実際、この名前にしてからが、特に稼ぎに稼ぎまくったとのことです。
それはまさに、事務所の先輩でありボスである『欽ちゃん』こと、萩本欽一の指示により、ラビット関根から関根勤にした途端にブレイクし、全国区になっていったのと共通していると言えるでしょう。
こんな人柄も…
アメリカの主要テリトリーを皮切りに、日本の新日本プロレスを経て、アメリカ最大手WWEまで昇り詰めたマスクド・スーパースター。
『銀座NOW』というバラエティー番組の1コーナーである、素人芸のゴングショーをきっかけに、コメディアンとしての下積みを重ね、萩本欽一により見いだされ、鍛え上げられて全国区の人気者になった関根勤。
生き方や売れ方、そして、人となりとしても、かなりの共通点がある二人。さらに付け加えるならば、それは、どちらも超が付くほどの愛妻家であるという事です。
マスクド・スーパースターは、オフの日は、奥さんのために全てを費やし捧げるそうです。買い物、料理、エステの送り迎えまでも率先して。遠征中も奥さんの事が気になって、当時、携帯電話が無かった時代、最低でも、一日に午前と午後に電話して、声を聞かないと気が済まなかったそうです。
関根勤も、自身が豪語するほどの愛妻家です。奥さんに罵られたり蔑まされたりする度に、ゾクゾク興奮すると、常々語る時の彼の瞳は、尋常でないくらいにキラキラと輝いています。
マスクド・スーパースターと関根勤を見て思う事。それは、世間を上手に渡り歩くという事は、すなわち、奥さんの尻に上手に敷かれてこそ。…なのかもしれません。