星野勘太郎のエグすぎるパンチ
「ビッシビシいくぞ!」「技じゃない、ファイティングスピリッツなんだよ!」などのフレーズで、魔界倶楽部の総裁として新日本プロレスの暗黒時代・黒歴史とも言われている2000年代前半を沈ませることなく盛り上げ続け、棚橋弘至や中邑真輔たちがスターとして一本立ちするまで活性化させ続けた星野勘太郎。だが、その現役時代は、それ以上のまさに大車輪の活躍と、プロレスラーとしての凄味を誰よりも感じさせていた。
中でも、「パンチ」には特筆すべきものがあった。
かつて、アンドレ・ザ・ジャイアントにして、「あいつのパンチは、イノキのよりも痛い」と、言わしめたほど。
プロレス入りするまでは、ボクシングに打ち込んでいた星野のパンチは、筋金入りの威力と共に、エグすぎるものが内包されていた。
星野勘太郎のパンチの凄味
星野勘太郎が試合中、必ずといっていいほど繰り出すパンチ。そのどれもが、ややコミカルさを伴う。ヘッドロックをしたまま、レフェリーの死角をついて相手の顔面にパンチ。時にはマシンガンで。声を高らかに上げての高速パンチなどはその典型である。だが、このパンチ。そのどれもが試合の展開の流れを変えるために、抜群のタイミングで放たれていたのである。
そして、シングルマッチよりもタッグマッチで大きく作用しているのだが、特に、タイトルマッチや、注目されている大事な試合ともなると、このパンチはコミカルさが封印され、星野勘太郎のシリアスな部分が前面に現れ、一気に緊張感とピーンと張り詰めた空気を漂わせるのがこのパンチなのである。
1970年、日本プロレスでのアントニオ猪木と組んだNWAタッグトーナメント決勝戦や、1988年、新日本プロレスでの猪木、長州力と組んだジャパンカップ6人タッグリーグ。その中で星野勘太郎は、パンチをここぞとばかりに繰り出して八面六臂の大活躍だった。パンチが出ていなければ負けていた、或いは、試合の流れが相手側に向いていたであろうという場面がほとんどの時に、絶妙の場面で、絶妙のタイミングで炸裂するパンチ。
だがしかし、当の星野勘太郎自身は、さも当然という感じで、バイプレイヤーに徹して仕事をこなすのみ…という、職人気質的な振る舞いに終始。そう、これこそが、星野勘太郎のダンディズムなのである。
プロモーターとしての一面にも凄みアリ
星野勘太郎は現役時代から、地元である神戸地区の新日本プロレスのプロモーターとして活動していたのだが、その営業力はダントツで群を抜いていた。山本小鉄とのヤマハブラザーズとして一世を風靡していた頃から、地元神戸での知名度とカリスマ性は他の追随を許さなかった星野勘太郎。そこへもってきて、プロモーターとしての気配りや商才センスも持ち合わせていたのだから、誰も手が付けられないワケである。
こんな事があった。
その日は土曜日で、甲子園球場でプロ野球『阪神ー巨人戦』。そして、神戸スタジアムでの浜崎あゆみコンサート。新日本プロレスが神戸ワールド記念ホール(プロレスでの収容人員当時10000人)と、ニアミスの至近距離の会場で、ほぼ同時刻で興行がバッティング。さすがの星野勘太郎のプロモート力を持ってしても満員は厳しいのでは!?と、心配されていたにもかかわらず、フタを開けてみたらナント、当日券が異常に伸びて9000人の満員札止めになるというような、語り継がれる伝説を星野勘太郎はいくつも持っている。
また、プロモーター兼選手である星野勘太郎ならではの会場の見方・捉え方を持っていた。それがTVマッチにおけるテレビカメラについてである。各会場には、大体決まった場所にハンディカメラとは別に固定のカメラも設置されるのだが、星野は、そのカメラの邪魔にならないように客席を配置しつつ、カメラが捉えられない「死角」を頭の中に完全にインプットしていたという。それはすなわち、レフェリーだけでなく、カメラのブラインドを衝いてのパンチ攻撃をするために……。
自他共に認める猪木信者
星野勘太郎のアントニオ猪木を崇拝している事は有名だが、それは生半可なものではない。そもそも星野はプロレス界に入ってすぐに、猪木のスター性とカリスマ性に心底惚れこんでいた。自分には無いものすべてを兼ね備えていた猪木から、片時も離れていたくない一心から星野は、自ら志願する形で、日本プロレス時代の猪木の用心棒を買って出ていた。一般的には、猪木の用心棒としてのイメージは、藤原喜明が思い浮かぶかもしれないが、それは新日本プロレスからの話であって、星野はもっと前からなのだ。年季が違うし、なにより、猪木を守るという意味では、自分自身を完全に犠牲にしていた。星野は、「これだ!」と思った事は頑として貫き守り通す男なのだ。それを如実に表しているのが反則が嫌いであることだ。ここまで再三にわたって、星野のパンチの凄さを伝えておきながら、反則が嫌いも何もないだろう!となるが、星野は、「プロは、ここぞという時に使うのがプロなのだ!」と。イスなりテーブルを持ち出して、あからさまにガッシャンガッシャンやり合うのではなく、溜めに溜め、焦らしに焦らしてこそ一気に、しかも一瞬で終わる。客を意識してこそがプロなのだ!と。
当然、それはプロレスの試合にも当てはまる。試合が始まってすぐに大技をガツンガツンやるのはもってのほかで、それができるのは、猪木らが登場する後半の試合であり、メリハリと格を重んじて、若手や前座の試合は、大技はとことん排除して、フィニッシュとなるここぞという時にズバッと出すものと指導していた星野。極論すれば、大技は、ボディスラムとドロップキックだけでいいという。確かに、星野の試合は、猪木やタイガーマスクなどと組む以外の前座試合は、ロープワークすらのない、関節技と寝技を中心に成立されている。あのパンチは、本当にここぞという時にしか出てこない。
一番可愛がっていたのは前田日明
そんな星野勘太郎に、果敢にも異議を唱えた若手がいた。前田日明である。星野は、事ある度に前田を気にかけ可愛がっていた。前田が入門してきた当初から、どことなく自分に性格が似ていると感じていた。コイツは伸びる!上背もあってルックスも良い。星野は、身体能力と将来性が抜群に期待できる前田を猪木の後継者はコイツだ!と、惚れこんでいた。
だが、ある日。前田は、星野を裏切る事に……。
前田の『UWF』への傾倒である。
前田日明とUWFについては、また別の機会で語るとして、星野は、前田が新日本プロレスを離れてUWFに移った事を裏切りと捉えて腹を立てているのではなく、移った以上は、責任を持ってUWFを全うし、たとえ潰れたにせよ、覚悟や生きざまが感じられたら良しとしていたのに、潰れました。はい、じゃあまた新日本プロレスでお世話になります。UWFのままで。という薄っぺらさに腹を立てたのだった。しかも、戻ってきて早々に、猪木に喧嘩を吹っかけ続けた前田に、星野は猛烈にブチ切れた。「何様のつもりだ!」と。その気概たるや凄まじく、敢然と何度も一人でUWFの控室に殴り込むほどだった。前田は、何年も経った後、述懐している。
「みんな口では威勢のいいこと言うんだけど、実際に行動してみせたのは星野さんだけだよ」
星野勘太郎は、とことんまで、骨の髄まで己を貫き通した「漢」なのである。
最後に
星野勘太郎は、己を頑なに曲げずに貫き通した一生だったと言えよう。時にそれは、融通や整合性が伴わず、必要のない誤解や、ムダな衝突を生んだ事に繋がってもいる。だが、それでも星野はブレなかった。
アントニオ猪木は、星野が死んだ際に、「アイツは死んでねえよ。俺と一緒に生きている」と、星野が生前に聞いていたら、涙するであろう言葉を残した。この言葉が星野勘太郎の全てを物語っている。
あの凄味あるパンチと共に、星野勘太郎は、いつまでも語り継がれていく……。